意見特集③「HINOMARU」の正体

2018年6月29日

喜久山大貴

 

RADWIMPSが2018年6月6日に発表した新曲、「HINOMARU」の歌詞は、明らかに戦争賛美、殉死を肯定するものであり、侵略戦争の旗印である日の丸を擁護したいという欲望に貫かれている。
まずは歌詞の一部(抜粋)を見てもらいたい。カッコ内は私が追記した意訳である。


◇◇◇◇◇

風にたなびくあの旗に 古(いにしえ)よりはためく旗に
意味もなく懐かしくなり こみ上げるこの気持ちはなに
胸に手をあて見上げれば 高鳴る血潮、誇り高く
この身体に流れゆくは 気高きこの御国の御霊

(日の丸の旗を見上げ、気高いご先祖様の血統を誇りに思う)


さぁいざゆかん 日出づる国の 御名の下に
どれだけ強き風吹けど 遥か高き波がくれど
僕らの燃ゆる御霊は 挫けなどしない

(日の出ずる国から日の沈む方へ、嵐や大波に負けず、揺るがぬ決意で、さあ出陣しよう)


ひと時とて忘れやしない 帰るべきあなたのことを
たとえこの身が滅ぶとて 幾々千代に さぁ咲き誇れ
さぁいざゆかん 守るべきものが 今はある

(帰るべき場所、守るべき人のため、たとえ我が身は玉砕しても、日本が永久に繁栄しますように)

◇◇◇◇◇


さて、本稿で私は、「HINOMARU」という楽曲に対する評価として、RADWIMPSの他の楽曲との比較において、それらを補助線として用いつつ、読み解く方法を提案したい。


HINOMARU」の発表を受けて、RADWIMPSの楽曲に見切りをつけ、離れることを選択した元ファンの人から、「君と羊と青」の頃はよかったんだよ、愛国と勝利を歌わなくとも激励できていたんだよ、と教えてもらった。
これは、2011年当時のNHKサッカー放送のテーマで、「君」と「羊」と「青」を繋げて読める「群青」は、サッカー日本代表のユニフォームカラーなのである。
歌詞を読んで、私は驚いた。
野田氏は、「君と羊と青」を明確に意識して、自らのアンサーソングとして、新曲「カタルシスト/HINOMARU」を発表している。こちらは、2018年フジテレビ系サッカー放送のテーマとなっている。

特に意識されていることが分かるのは、「今がその時」という歌詞のフレーズである。「君と羊と青」では、Aメロの一番最初の言葉であり、「カタルシスト」ではサビで繰り返す言葉である。
いずれの曲でも「今がその時」というフレーズは、特に大事に扱われているが、両者は、歌詞全体の作り込み方が全く違うものとなっている。

君と羊と青」では、「今」を生きる喜びを、どこかで完「結」することなく「転」がり続ける刹那的な衝動として、自己の身体に切り込みながら言及して描き出している。
「骨の髄まで」、「閉じた瞳の残像」、「僕を賞味」、「頬張った僕らの日々」「この五臓の六腑を」、「皮膚の下を」など。
シュールだが、とても良い曲だと思う。


これに対して、「カタルシスト」では、外在的な評価を伴う形で「勝ちにいく」ことを欲望してしまう。
「今は御託並べずにがむしゃらに勝ちにいく時」として、「君と羊と青」の内に向かっていった衝動を、他者である敵に向けることを歌った。

君と羊と青」では、おそらく、かなり意識して、「手当たり次第ボタンがあれば連打」、「精一 目一杯」、「全方位を」、「縦横無尽に」といった力強い言葉を使いつつも、自己言及にとどめよう、という倫理観があった。

しかし、「カタルシスト」は、「負けられない」、「勝ちたい」という欲望を露骨なまでに肯定し、それにも関わらず、「誰かを負かしたいわけじゃない」、「まだ見ぬ自分の姿に」「出逢いたい」と奇妙な言い訳をしてしまう。

そして、カップリング曲である「HINOMARU」も「カタルシスト」と併せて読まれるべきだろう。「HINOMARU」でも侵略戦争を肯定する言葉を用い、意識的に勝者・支配者になりたいという欲望を露骨に描きながら、それにも関わらず、「誰かに対する攻撃的な思想もありません」と言い訳してみせるのである。


要するに、「カタルシスト」と「HINOMARU」において共通するのは、敵に打ち勝って優越的地位に立ちたいという欲望と、敵を負かして傷つけるのは悪だという倫理を、説明抜きで継ぎ接ぎしてしまう点である。
つまり、野田氏の頭の中では、被害の無効化、被害者の透明化によって、露骨な欲望に折り合いをつけ、許されたことになったのである。

HINOMARU」が侵略戦争を歌っていることはもはや明白だが、野田氏の頭の中で起きていることは、極めて奇妙である。
被害を無効化し、殺戮の歴史と繰り返される未来を忘却すれば、日本人の頭上に、ただまっすぐに、誇れる何物かが立ち現れてくるという。
それは、勝者のみが存在し、敗者はいない、という継ぎ接ぎの矛盾を現実化させる、神聖な存在としての、天皇、日の丸だったのである。


君と羊と青」を収録したアルバム「絶体絶命」は2011年3月9日、東日本大震災の2日前に発表された。
野田氏にとって、震災や原発事故は相当の衝撃であり、自粛ムードの最中に催された同年4月12日以降のLIVEツアーは「絶対延命」と称することになった。
この点は、なぜ野田氏の楽曲の作り方が、この7年間で大きく変節したかについてのヒントになるだろう。


君と羊と青」の制作当時、野田氏が持っていた、外に向かっていく勝利欲や支配欲と、それらを抑制する倫理観とは、一定の均衡が保たれ、歌詞の中では、力強さと繊細な言葉選びが可能となった。
しかし、東日本大震災によって、多数の人々が犠牲になり、日本列島が放射能汚染の被害に見舞われ、彼の中にあった均衡が狂っていく。

これは、反原発の「国民運動」とも共通する。
おそらく、自分たちが大変な目にあった、被害を受けた、という感情が鬱積していくことで、現状を何とか覆したい、誰かに勝利し、外在的な評価を得たい、と切望するようになった。
そして、「自分たち」とは日本人であって、「被害を受けた」のは国土であるというキャンペーン、すなわち、「頑張ろう日本」と結びついて、国を愛したい、誇りに思いたい、という欲望へと横滑りする形で動員されていった。


さて、被害者意識を溜め込んだ野田氏の中では、勝者・支配者になりたいという欲望が膨張していったが、それらは、愛国心と日の丸の肯定によって、一定満たされることになった。
他方で、敗者、被害者の存在に目を向けんとする倫理観は消失させられ、日の丸に染み付いた加害の歴史は後景化、透明化させられていった。

野田氏に限らず、右でも左でもないと称する愛国者の認識の中では、天皇、日の丸という存在は、日本人を勝者にし、誇りを持たせてくれるが、誰をも敗者にせず、誰をも傷つけない、という不可能を可能にする、超自然的(≒歴史修正主義的)な存在として立ち現れている。


つまり、天皇や日の丸は、日本人に誇りを抱かせる機能のみを果たし、それ自体に罪はなく、過ぎ去った昔の話であり、きっと許されるはずであろうとの認識がある。
ここでは、侵略戦争の中で殺戮され、植民地支配を受けた国や地域の出身者及びその子孫たちのように、天皇、日の丸に傷つけられた集団的記憶を有する人々に対して、被害の歴史をなかったことにせよ、免罪せよと強要するようなことが、素朴に、かつ、堂々と行われているのである。
だからこそ、野田氏は、ただ純粋に、まっすぐ、この楽曲を発表することができたのであり、多くの批判を受けてなお、作詞者として恥じ入ることもできないで居直り続けているのだろう。

君と羊と青」の中で、野田氏は、人の外部に向かっていく欲望を、倫理の膜で包むことで、内側に渦巻く衝動を見事に描いてみせた。そこには、必ずしも勝敗はなかった。
しかし、東日本大震災の被害(敗北)を経験することによって、倫理のタガは弾け飛び、鬱積していた勝利への攻撃的な衝動が、露骨なまでの暴力となって解放(カタルシス)された。

これが新曲「カタルシスト/HINOMARU」の正体である。