意見特集:RADWIMPS『HINOMARU』の何が問題か②

一般的にいえば、歌の歌詞というのは解釈がむずかしいものです。

 歌詞を分析していったときに、ひとつひとつの言葉の意味は、いくとおりにも解釈できて、ひとつの決まった意味に決定できないことが多くあります。また、同じ歌が、聴くひとにとってそれぞれちがった意味に解釈されるということもあります。

 でも、RADWIMPSの『HINOMARU』の歌詞には、そういう解釈のむずかしさはありません。デキのわるい歌詞だけれど、これはあからさまに戦争扇動の歌です。そして、デキのわるい歌詞だから影響力が小さいということも言えないので、こまったものです。稚拙で三流の表現でも、戦争をあおり差別をあおるということは、十分に可能だからです。

 RADWIMPSの『HINOMARU』が問題なのは、戦争をあおる歌を発表し、これが結果的に戦争と差別の扇動に一定程度「成功」してしまっているといういことにあります。

 まず、『HINOMARU』の歌詞をみていきます。

 「日出づる国」が日本を指すことはあきらかです。くわえて「御国」というフレーズが肯定的に提示され、また歌のタイトルが『HINOMARU』ですから、「さぁいざいかん 守るべきものが 今はある」の「守るべきもの」が日本という国を指しているということは、解釈の余地がないでしょう。

 ごくひえかえめに言って、この歌は日本人による日本という国についての「愛国」の歌だと言えます。

 「愛国のなにがわるい?」とおっしゃるむきもあるかと思いますが、『HINOMARU』の問題はそれが「愛国」の歌であることにとどまりません。

 言葉、あるいは旗のような象徴は、それらが歴史的にまた社会的にどのように使われてきたのか、という文脈をぬきに考えることはできません。歴史や社会からへだたった真空で言葉が使われるわけではないからです。

HINOMARU』が指示する国旗日の丸は、日本が侵略戦争においてかかげ、侵略していった地でかかげてきた旗です。たとえば他国に侵略された人民が、植民地支配に抵抗する過程でかかげた旗とは、まったく異なる意味合いをもつ、侵略者の旗にほかなりません。ただの「愛国」の旗ではないのです。

 さらに『HINOMARU』には、「御国」「御霊」といった単語がちりばめられています。日本がおこなってきたのが、ひとかけらの正義や道理すら主張する余地のない侵略戦争であったからこそ、若者らを動員するために、兵士の死を顕彰する装置を必要としました。「御国」のために戦って死んだ「御霊」は、神として靖国神社にまつってやる。そう言って、若者らを「戦地」(日本軍が侵略に行った先の土地)に送りこみ、人殺しや略奪・暴行をさせたのです。

 こういった意味をいやおうなく持たされる「御国」「御霊」の語をちりばめながら、「たとえこの身が滅ぶとて 幾々千代に さぁ咲き誇れ」と歌うわけです。この歌が侵略国家としての日本の歴史を肯定すると同時に、そうした侵略軍の兵士として殺し殺されに行くことを肯定する歌であると解釈しないわけにはいかないのです。

HINOMARU』という歌は、こうして侵略戦争にまつわる歴史的語彙を歌詞のなかにちりばめる一方で、その侵略の歴史を消し去るとするような仕掛けをほどこしています。

「さぁいざいかん 守るべきものが 今はある」、あるいは「どれだけ強き風吹けど 遥か高き波がくれど」というフレーズです。

「守るべきもの」? 「強き風」? 「高き波」?

 まるで、日本が外国からの脅威にさらされているかのようなイメージを誘引する表現です。しかし、近代日本は、一貫して他国や他者の地域を侵略する側であったのが事実です。現在においても、日本は米国とともに協力な軍事力を朝鮮民主主義人民共和国などに向けており、東アジア地域の軍事的脅威として存在しています。また、PKOを口実に「自衛」隊が海外に派兵されていますが、日本の軍隊は派兵先の地域の人びとにとっての脅威にもなっています。

 歴史と現在における日本の位置を無視し、まるで脅威にさらされている被害者の位置に日本がいるかように現実を反転させる。こうして、「脅威」「敵」が外部にあるかのような、事実を逆転させた認識を表現してみせる。

 このように、『HINOMARU』はまぎれもなく侵略戦争を扇動する歌なのです。たんなる「愛国」の歌だということに問題はとどまらないのです。

 さて、『HINOMARU』の歌詞がいくつかの批判を受けると、この歌を書いた野田洋次郎さんは、弁明めいた文章を公表しました。「戦争が嫌いです。暴力が嫌いです」と始まるこの文章で、野田さんはつぎのように書いています。


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HINOMARUの歌詞に関して軍歌だという人がいました。そのような意図は書いていた時も書き終わった今も1ミリもありません。
ありません。誰かに対する攻撃的な思想もありません。
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 上に書いたように歌詞の内容を分析してきたところから考えて、私はこの弁明(?)を信用していません。でも、「意図は書いていた時も書き終わった今も1ミリもありません」という言葉を受け止めるとしましょう。しかし、その意図がなかったのに軍歌を書いてしまったのだとするならば、それはそれで深刻に考えるべきでしょう。

 大きな権力、人を従属させ支配しようとする力に対する批判的な意識を欠いた表現は、簡単にそういう力に持っていかれます。表現者が意図していなくても、容易に表現は大きな権力を擁護し、人をふみつけるようなものになってしまいます。軍事化をすすめる日本に暮らしていれば、軍事と戦争を肯定する価値観を知らず知らずのうちにすりこまれます。差別的な社会にあって、私たちは差別的な考え方やものの理解のしかたを、知らず知らずに身につけていきます。意図がなかったなどと言うことが弁明か何かになるというような表現をナメきった無責任な考え方を、野田さんは捨ててほしいと思います。

 くり返しますが、『HINOMARU』は戦争を扇動する歌です。そのことは、批判・抗議に対して『HINOMARU』を擁護・支持する人びとがとっている言動からも、結果的に証明されてしまっています。

 以下のリンクから、抗議行動の呼びかけやに対しするRADWIMPSファンの人たちの反応がよくわかります(差別的な発言が多々なされているので、閲覧注意です)。

https://twitter.com/MIDpj/status/1006527760599212033
https://twitter.com/kausuke1980/status/1008275419835985920


 抗議行動参加者への暴力を示唆する脅迫がなされています。さらに、おびただしい数の「日本から出ていけ」という排外主義・差別主義まるだしの発言がなされています。「日本の敵」をあぶりだし、それへの敵意と差別を扇動することに『HINOMARU』は「成功」したのです。こうした敵の差別的な創出と、創出された敵への敵意の扇動こそが、戦争につらなる下準備になるものであって、その「成果」を一定程度あげたという結果からみても、『HINOMARU』は戦争煽動の歌であると言えます。

 そして、野田さんは、自分の歌を擁護・支持するおびただしい人が脅迫や差別発言をくり返しているにもかかわらず、これについては現時点ではだんまりを決めこんでいます。自分の作った歌への批判・抗議にはただちに弁明めいた文章を公表したにもかかわらず、です。

 上のリンクにみられるような差別発言や脅迫、『HINOMARU』を支持する人たちの言動に対して、野田さんが今後どのような姿勢を示すのか、注目したいと思います。まあ、知らんぷりを決めこんで、右翼のみなさんとの共犯関係をつづけていくのだろうと予想していますが。

やねごん