意見特集③「HINOMARU」の正体

2018年6月29日

喜久山大貴

 

RADWIMPSが2018年6月6日に発表した新曲、「HINOMARU」の歌詞は、明らかに戦争賛美、殉死を肯定するものであり、侵略戦争の旗印である日の丸を擁護したいという欲望に貫かれている。
まずは歌詞の一部(抜粋)を見てもらいたい。カッコ内は私が追記した意訳である。


◇◇◇◇◇

風にたなびくあの旗に 古(いにしえ)よりはためく旗に
意味もなく懐かしくなり こみ上げるこの気持ちはなに
胸に手をあて見上げれば 高鳴る血潮、誇り高く
この身体に流れゆくは 気高きこの御国の御霊

(日の丸の旗を見上げ、気高いご先祖様の血統を誇りに思う)


さぁいざゆかん 日出づる国の 御名の下に
どれだけ強き風吹けど 遥か高き波がくれど
僕らの燃ゆる御霊は 挫けなどしない

(日の出ずる国から日の沈む方へ、嵐や大波に負けず、揺るがぬ決意で、さあ出陣しよう)


ひと時とて忘れやしない 帰るべきあなたのことを
たとえこの身が滅ぶとて 幾々千代に さぁ咲き誇れ
さぁいざゆかん 守るべきものが 今はある

(帰るべき場所、守るべき人のため、たとえ我が身は玉砕しても、日本が永久に繁栄しますように)

◇◇◇◇◇


さて、本稿で私は、「HINOMARU」という楽曲に対する評価として、RADWIMPSの他の楽曲との比較において、それらを補助線として用いつつ、読み解く方法を提案したい。


HINOMARU」の発表を受けて、RADWIMPSの楽曲に見切りをつけ、離れることを選択した元ファンの人から、「君と羊と青」の頃はよかったんだよ、愛国と勝利を歌わなくとも激励できていたんだよ、と教えてもらった。
これは、2011年当時のNHKサッカー放送のテーマで、「君」と「羊」と「青」を繋げて読める「群青」は、サッカー日本代表のユニフォームカラーなのである。
歌詞を読んで、私は驚いた。
野田氏は、「君と羊と青」を明確に意識して、自らのアンサーソングとして、新曲「カタルシスト/HINOMARU」を発表している。こちらは、2018年フジテレビ系サッカー放送のテーマとなっている。

特に意識されていることが分かるのは、「今がその時」という歌詞のフレーズである。「君と羊と青」では、Aメロの一番最初の言葉であり、「カタルシスト」ではサビで繰り返す言葉である。
いずれの曲でも「今がその時」というフレーズは、特に大事に扱われているが、両者は、歌詞全体の作り込み方が全く違うものとなっている。

君と羊と青」では、「今」を生きる喜びを、どこかで完「結」することなく「転」がり続ける刹那的な衝動として、自己の身体に切り込みながら言及して描き出している。
「骨の髄まで」、「閉じた瞳の残像」、「僕を賞味」、「頬張った僕らの日々」「この五臓の六腑を」、「皮膚の下を」など。
シュールだが、とても良い曲だと思う。


これに対して、「カタルシスト」では、外在的な評価を伴う形で「勝ちにいく」ことを欲望してしまう。
「今は御託並べずにがむしゃらに勝ちにいく時」として、「君と羊と青」の内に向かっていった衝動を、他者である敵に向けることを歌った。

君と羊と青」では、おそらく、かなり意識して、「手当たり次第ボタンがあれば連打」、「精一 目一杯」、「全方位を」、「縦横無尽に」といった力強い言葉を使いつつも、自己言及にとどめよう、という倫理観があった。

しかし、「カタルシスト」は、「負けられない」、「勝ちたい」という欲望を露骨なまでに肯定し、それにも関わらず、「誰かを負かしたいわけじゃない」、「まだ見ぬ自分の姿に」「出逢いたい」と奇妙な言い訳をしてしまう。

そして、カップリング曲である「HINOMARU」も「カタルシスト」と併せて読まれるべきだろう。「HINOMARU」でも侵略戦争を肯定する言葉を用い、意識的に勝者・支配者になりたいという欲望を露骨に描きながら、それにも関わらず、「誰かに対する攻撃的な思想もありません」と言い訳してみせるのである。


要するに、「カタルシスト」と「HINOMARU」において共通するのは、敵に打ち勝って優越的地位に立ちたいという欲望と、敵を負かして傷つけるのは悪だという倫理を、説明抜きで継ぎ接ぎしてしまう点である。
つまり、野田氏の頭の中では、被害の無効化、被害者の透明化によって、露骨な欲望に折り合いをつけ、許されたことになったのである。

HINOMARU」が侵略戦争を歌っていることはもはや明白だが、野田氏の頭の中で起きていることは、極めて奇妙である。
被害を無効化し、殺戮の歴史と繰り返される未来を忘却すれば、日本人の頭上に、ただまっすぐに、誇れる何物かが立ち現れてくるという。
それは、勝者のみが存在し、敗者はいない、という継ぎ接ぎの矛盾を現実化させる、神聖な存在としての、天皇、日の丸だったのである。


君と羊と青」を収録したアルバム「絶体絶命」は2011年3月9日、東日本大震災の2日前に発表された。
野田氏にとって、震災や原発事故は相当の衝撃であり、自粛ムードの最中に催された同年4月12日以降のLIVEツアーは「絶対延命」と称することになった。
この点は、なぜ野田氏の楽曲の作り方が、この7年間で大きく変節したかについてのヒントになるだろう。


君と羊と青」の制作当時、野田氏が持っていた、外に向かっていく勝利欲や支配欲と、それらを抑制する倫理観とは、一定の均衡が保たれ、歌詞の中では、力強さと繊細な言葉選びが可能となった。
しかし、東日本大震災によって、多数の人々が犠牲になり、日本列島が放射能汚染の被害に見舞われ、彼の中にあった均衡が狂っていく。

これは、反原発の「国民運動」とも共通する。
おそらく、自分たちが大変な目にあった、被害を受けた、という感情が鬱積していくことで、現状を何とか覆したい、誰かに勝利し、外在的な評価を得たい、と切望するようになった。
そして、「自分たち」とは日本人であって、「被害を受けた」のは国土であるというキャンペーン、すなわち、「頑張ろう日本」と結びついて、国を愛したい、誇りに思いたい、という欲望へと横滑りする形で動員されていった。


さて、被害者意識を溜め込んだ野田氏の中では、勝者・支配者になりたいという欲望が膨張していったが、それらは、愛国心と日の丸の肯定によって、一定満たされることになった。
他方で、敗者、被害者の存在に目を向けんとする倫理観は消失させられ、日の丸に染み付いた加害の歴史は後景化、透明化させられていった。

野田氏に限らず、右でも左でもないと称する愛国者の認識の中では、天皇、日の丸という存在は、日本人を勝者にし、誇りを持たせてくれるが、誰をも敗者にせず、誰をも傷つけない、という不可能を可能にする、超自然的(≒歴史修正主義的)な存在として立ち現れている。


つまり、天皇や日の丸は、日本人に誇りを抱かせる機能のみを果たし、それ自体に罪はなく、過ぎ去った昔の話であり、きっと許されるはずであろうとの認識がある。
ここでは、侵略戦争の中で殺戮され、植民地支配を受けた国や地域の出身者及びその子孫たちのように、天皇、日の丸に傷つけられた集団的記憶を有する人々に対して、被害の歴史をなかったことにせよ、免罪せよと強要するようなことが、素朴に、かつ、堂々と行われているのである。
だからこそ、野田氏は、ただ純粋に、まっすぐ、この楽曲を発表することができたのであり、多くの批判を受けてなお、作詞者として恥じ入ることもできないで居直り続けているのだろう。

君と羊と青」の中で、野田氏は、人の外部に向かっていく欲望を、倫理の膜で包むことで、内側に渦巻く衝動を見事に描いてみせた。そこには、必ずしも勝敗はなかった。
しかし、東日本大震災の被害(敗北)を経験することによって、倫理のタガは弾け飛び、鬱積していた勝利への攻撃的な衝動が、露骨なまでの暴力となって解放(カタルシス)された。

これが新曲「カタルシスト/HINOMARU」の正体である。

『6.26ラッドウインプスHINOMARU抗議』不当逮捕救援会・抗議声明

 

<『6.26ラッドウインプスHINOMARU抗議』不当逮捕救援会・弁護士の抗議声明>
兵庫県警は仲間と車を今すぐ返せ!

2018年6月27日 『6.26ラッドウインプスHINOMARU抗議』不当逮捕救援会
呼びかけ人:木村真豊中市議会議員)、西山直洋(連帯労組近畿地本)、原口剛(神戸大学准教授)、喜久山大貴(弁護士)、橋本太地(弁護士)

2018年6月26日、兵庫県警が「RADWIMPS」の『HINOMARU』に抗議した人を不当逮捕しました。
警告すら無く運転手を引きずり出し、車や荷物ごと押収した拉致監禁です。
私たちは兵庫県警に仲間と車をすぐに返すことを要求し、全ての方に共に声を上げることをお願いします。

HINOMARU』は、大人気バンドが戦前の軍歌そのものを作ったと大問題になりました。
歌詞:http://j-lyric.net/artist/a04ac97/l0469f5.html
「風にたなびくあの旗に 古よりはためく旗に」
「この身体に流れゆくは 気高きこの御国の御霊 さぁいざゆかん 日出づる国の 御名の下に」
「たとえこの身が滅ぶとて 幾々千代に さぁ咲き誇れ」

以前から「日本頑張れ」系の愛国ソングがW杯の時期に増えていましたが、
この歌が一線も二線も超えたのは、天皇が治める国家のために戦争・戦死することを直接ほめたたえているからです。
侵略戦争の歴史を正当化するとともに、新たな侵略戦争も推進する。
それを「どれだけ強き風吹けど、遙か高き波がくれど」と、今にも日本が侵略されそうな
被害者意識で正当化する。無知や思いつきではなく、周到に練られた戦争動員です。
問題点のまとめ①https://t.co/xwTZyVdo9e
https://rad20186.hatenablog.com/entry/2018/06/24/182006

しかし高まる批判にも、バンドは「何が悪い!」と開き直り、数千人とライブで熱唱。
販売したEMIレコーズとスポンサーのフジテレビは一切沈黙。
そこで抗議者は3者に対し、問題点と要求を詳細に公開質問状で出しました。
https://rad20186.hatenablog.com/entry/2018/06/17/112141
https://rad20186.hatenablog.com/entry/2018/06/17/120342

しかしこれにも回答が無しでした。差別・戦争の扇動がここまで放置された時、世界中どこでも、直接的な阻止行動が行われます。そこで今回のライブ会場前の抗議が実行されました。
抗議者が車を出したのは、『HINOMARU』を支持する右派からの凄まじい数の脅迫メールが
来たため、参加者の身の安全を守る必要にも迫られたからです。
(詳細:https://twitter.com/rad20186 の返信欄)
会場前の車道には、兵庫県警公認のもと、「日本第一党」の京都本部長西村斉、「日侵会」
などの右翼が街宣車で陣取り、「抗議者は朝鮮人だ!出て行け!」「日の丸を歌うのがなぜ悪い!」「ゴキブリ!ウジ虫!」など大音量で流し続けていました。『HINOMARU』がこれらを誘発したのは明らかです。

ところが右翼の車は容認しながら、抗議参加者の車は会場数百Mも手前の交差点で警察に包囲・阻止されました。それでも抗議者はマイクで抗議のスピーチを始め、警察と交渉も始めました。しかしその声が会場へ届くのを恐れた警察は、わずか7分後に「交差点で停車した」「免許証を見せなかった」という罪名で不当逮捕をしてきました。
こんな短時間に、この程度で、運転手を車ごと連れ去る世界がどこにあるでしょうか。日の丸の批判はさせないという国家権力の恣意的乱用そのものです(しかも法的な根拠もありません。後半の弁護士の文章を参照)。

私たちは兵庫県警・水上署に断固抗議し、仲間と車を今すぐ返すことを要求します。6/27~29日に、
10日間の勾留をされるかどうかが決まります。即時釈放の要求をお願いします→兵庫県警:078-341-7441
勾留をするなと声を→神戸地検刑事部: 078-367-6067

そして改めて問われているのは、RADWIMPS・ファン・レコード会社の姿勢です。音楽や表現は、
戦争を賛美し、異なる意見を冷たい監獄に叩き込んで黙らせるためにあるのでしょうか。
右翼・警察の差別や暴力と一体化するためにあるのでしょうか。沈黙はイエスの表明です。
三者を含む全ての人は、『HINOMARU』を問題視し、抗議者を釈放させるために声を上げて下さい。

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HINOMARU抗議行動に対する弾圧逮捕の被逮捕者A氏は無実である」

2018年6月27日
弁護士 喜久山 大貴

兵庫県警による弾圧逮捕の概要
(1)2018年6月26日17時半ころ、A氏はRADWIMPSHINOMARUに対する抗議行動を行うため、LIVE会場である神戸ワールド記念ホール近くで街宣車を運転していたところ、兵庫県警が道交法違反をでっち上げて、A氏をその場で現行犯逮捕した(以下、「本件逮捕」という。)。
さらに、本件逮捕に伴う差押えとして、街宣車から同乗者らを降ろし、車両ごとレッカー車で押収した。街宣車の中には抗議行動で使用する予定のトラメガが積載されており、トラメガは道交法違反と無関係にもかかわらず返さなかった。
(2)警察がでっち上げた道交法違反とは、同日17時20分から17時27分までの間、街宣車を交差点内から移動させなかったことによる①停車禁止違反(44条)、及び、免許証の提示の求めに応じなかったことによる②免許証提示義務違反(95条2項)である。

2 弾圧目的の違法逮捕である
(1)A氏に道交法違反が成立しないことは以下で詳述するが、仮に、警察のいう道交法違反があったとしても、わずか7分間という短時間の停車と、免許証の提示を拒否していたとの事実のみで、逮捕することは通常ありえない。わざわざこの程度の事実で現行犯逮捕に踏み切るのは、法律の適用として極めて恣意的であり、バランスを欠いたものである。
(2)また、警察は、現場の一部始終について採証活動としてビデオ撮影を行なっており、道交法違反の証拠となりうるものは確保している。しかし、道交法違反の証拠物だとして街宣車そのものと、その中にあったトラメガを押収した。明らかに逮捕に伴う無令状差押えの範囲を逸脱している。
(3)つまり、初めから街宣車とトラメガを奪い取ることを目的とした不当捜査であり、HINOMARUに対する抗議行動を弾圧するための違法な逮捕であることは明らかである。

3 具体的な事実経過
(1)A氏は、街宣車を運転し、LIVE会場である神戸ワールド記念ホールの出入り口に面し、神戸国際展示場に挟まれた道路(以下、「LIVE会場前の道路」という。)に進入するため、スポーツセンター南側の幹線道路からT字型の交差点を左折しようとした。しかし、LIVE会場前の道路にはカラーコーンが設置され、車両が進入できないように封鎖されていたので、仕方なく左折の方向指示器を点滅させたまま、T字路角の道路上に一時停止した。
近くにいた警察官が集まってきて、街宣車の同乗者に向かって、LIVE会場前の道路には入れないと申し向けたので、同乗者は「普段は通行可能なのに、どうして今日は通行できないのか」旨尋ね、警察官は「LIVEがあるので、歩行者専用道路となっている」などと答え、押し問答となった。
その間に、多数の警察官が街宣車を取り囲んでビデオ撮影を行いつつ、他の場所に移動するよう命令した。
(2)さらに、警察は、A氏に対して免許証提示を求めたが、A氏はこれに従わなかった。
(3)街宣車がカラーコーンの前で停止した7分後、警察はA氏を①交差点における停車禁止違反と②免許証提示義務違反を理由に現行犯逮捕した。

4 道交法違反の不成立
(1)停車禁止違反の点について
ア A氏はLIVE会場前の道路に進入しようとしていたところ、その入り口がカラーコーンで封鎖されているのを発見し、T字路の角で一時停止していたに過ぎない。
また、一時停止後、LIVE会場前の道路に進入できるか否かについて同乗者と警察官との間で、押し問答が行われていたのであり、A氏は街宣車を移動させることができなかった。
さらに、街宣車の周りを警察官が取り囲んでおり、左折を諦めて直進するために移動させることもできない状況であった。
したがって、警察は、自らカラーコーンで道路を封鎖し、さらに街宣車を多数人で取り囲んでおきながら、T字路の交差点から街宣車を移動させなかったとして、停車状態をでっち上げた。

イ さらに言えば、A氏が進入しようとしたLIVE会場前の道路は、その当時、歩行者専用道路として封鎖されていた。すると、普段はT字路の交差点として利用されていた本件逮捕の現場は、その当時、法的には直進道路となっていたから、「交差点」(44条1号)に該当せず、停車禁止場所ですらなかった。

ウ したがって、A氏に停車禁止違反は成立しない。
(2)免許証提示義務違反の点について
ア 免許証の提示は、a.酒気帯び運転の疑いなど危険防止のために車両を停止させる場合と、b.交通事故で人を死傷させ、もしくは物を損壊した場合、c.道交法に違反した場合に限り、警察官の求めによって提示義務が発生する(95条2項、67条)。

イ 本件逮捕について、免許証提示義務が生じたとされるのは「道交法に違反した場合」に該当すると警察が判断したためである。しかし、上記のとおり、A氏には停車禁止違反が成立しないため、提示義務は発生していなかった。
A氏に提示義務がないにもかかわらず、免許証を任意に示さなかったことで逮捕することはできないのであり、免許証提示義務違反も成立しない。
(3)停止禁止違反をごく短時間で認定したこと
ア 上記のように、警察は、A氏がT字路角に街宣車を停止してから7分後には、停止禁止違反及び免許証提示義務違反で現行犯逮捕しているが、現実には、7分よりはるかに短時間で停止義務違反を認定していたことになる。
イ なぜなら、警察は免許証提示義務の発生を前提として、A氏にその提示を求め、一定時間の経過によって、提示を拒否したと認め、A氏を現行犯逮捕しているのである。
遡って考えると、免許証提示義務の発生は、道交法違反の事実があった場合であるから、一時停止の後、おそらく3〜4分程度のごく短時間で、停車禁止違反を認定し、免許証の提示を求め、さらに(3分程度の)一定時間の経過をもって、免許証提示義務違反を認定したと考える他ない。
ウ そうすると、現行犯逮捕の理由としては、停車禁止違反を、「17時20分から17時27分まで」の7分間としたものの、現実には、それより遥かに短時間で停車禁止違反の事実をでっち上げていたということになる。
つまり、免許証提示義務違反でも、A氏を現行犯逮捕したということは、街宣車が7分間移動しなかったことによって、停車禁止違反となる、という現行犯逮捕の理由説明が、全くのデタラメであることを自ら示していることになる。
(4)結論
A氏には道交法違反はいずれも成立せず、無実である。兵庫県警は現行犯逮捕の誤りを認め、直ちにA氏を釈放しなければならない。
以上

意見特集:RADWIMPS『HINOMARU』の何が問題か②

一般的にいえば、歌の歌詞というのは解釈がむずかしいものです。

 歌詞を分析していったときに、ひとつひとつの言葉の意味は、いくとおりにも解釈できて、ひとつの決まった意味に決定できないことが多くあります。また、同じ歌が、聴くひとにとってそれぞれちがった意味に解釈されるということもあります。

 でも、RADWIMPSの『HINOMARU』の歌詞には、そういう解釈のむずかしさはありません。デキのわるい歌詞だけれど、これはあからさまに戦争扇動の歌です。そして、デキのわるい歌詞だから影響力が小さいということも言えないので、こまったものです。稚拙で三流の表現でも、戦争をあおり差別をあおるということは、十分に可能だからです。

 RADWIMPSの『HINOMARU』が問題なのは、戦争をあおる歌を発表し、これが結果的に戦争と差別の扇動に一定程度「成功」してしまっているといういことにあります。

 まず、『HINOMARU』の歌詞をみていきます。

 「日出づる国」が日本を指すことはあきらかです。くわえて「御国」というフレーズが肯定的に提示され、また歌のタイトルが『HINOMARU』ですから、「さぁいざいかん 守るべきものが 今はある」の「守るべきもの」が日本という国を指しているということは、解釈の余地がないでしょう。

 ごくひえかえめに言って、この歌は日本人による日本という国についての「愛国」の歌だと言えます。

 「愛国のなにがわるい?」とおっしゃるむきもあるかと思いますが、『HINOMARU』の問題はそれが「愛国」の歌であることにとどまりません。

 言葉、あるいは旗のような象徴は、それらが歴史的にまた社会的にどのように使われてきたのか、という文脈をぬきに考えることはできません。歴史や社会からへだたった真空で言葉が使われるわけではないからです。

HINOMARU』が指示する国旗日の丸は、日本が侵略戦争においてかかげ、侵略していった地でかかげてきた旗です。たとえば他国に侵略された人民が、植民地支配に抵抗する過程でかかげた旗とは、まったく異なる意味合いをもつ、侵略者の旗にほかなりません。ただの「愛国」の旗ではないのです。

 さらに『HINOMARU』には、「御国」「御霊」といった単語がちりばめられています。日本がおこなってきたのが、ひとかけらの正義や道理すら主張する余地のない侵略戦争であったからこそ、若者らを動員するために、兵士の死を顕彰する装置を必要としました。「御国」のために戦って死んだ「御霊」は、神として靖国神社にまつってやる。そう言って、若者らを「戦地」(日本軍が侵略に行った先の土地)に送りこみ、人殺しや略奪・暴行をさせたのです。

 こういった意味をいやおうなく持たされる「御国」「御霊」の語をちりばめながら、「たとえこの身が滅ぶとて 幾々千代に さぁ咲き誇れ」と歌うわけです。この歌が侵略国家としての日本の歴史を肯定すると同時に、そうした侵略軍の兵士として殺し殺されに行くことを肯定する歌であると解釈しないわけにはいかないのです。

HINOMARU』という歌は、こうして侵略戦争にまつわる歴史的語彙を歌詞のなかにちりばめる一方で、その侵略の歴史を消し去るとするような仕掛けをほどこしています。

「さぁいざいかん 守るべきものが 今はある」、あるいは「どれだけ強き風吹けど 遥か高き波がくれど」というフレーズです。

「守るべきもの」? 「強き風」? 「高き波」?

 まるで、日本が外国からの脅威にさらされているかのようなイメージを誘引する表現です。しかし、近代日本は、一貫して他国や他者の地域を侵略する側であったのが事実です。現在においても、日本は米国とともに協力な軍事力を朝鮮民主主義人民共和国などに向けており、東アジア地域の軍事的脅威として存在しています。また、PKOを口実に「自衛」隊が海外に派兵されていますが、日本の軍隊は派兵先の地域の人びとにとっての脅威にもなっています。

 歴史と現在における日本の位置を無視し、まるで脅威にさらされている被害者の位置に日本がいるかように現実を反転させる。こうして、「脅威」「敵」が外部にあるかのような、事実を逆転させた認識を表現してみせる。

 このように、『HINOMARU』はまぎれもなく侵略戦争を扇動する歌なのです。たんなる「愛国」の歌だということに問題はとどまらないのです。

 さて、『HINOMARU』の歌詞がいくつかの批判を受けると、この歌を書いた野田洋次郎さんは、弁明めいた文章を公表しました。「戦争が嫌いです。暴力が嫌いです」と始まるこの文章で、野田さんはつぎのように書いています。


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HINOMARUの歌詞に関して軍歌だという人がいました。そのような意図は書いていた時も書き終わった今も1ミリもありません。
ありません。誰かに対する攻撃的な思想もありません。
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 上に書いたように歌詞の内容を分析してきたところから考えて、私はこの弁明(?)を信用していません。でも、「意図は書いていた時も書き終わった今も1ミリもありません」という言葉を受け止めるとしましょう。しかし、その意図がなかったのに軍歌を書いてしまったのだとするならば、それはそれで深刻に考えるべきでしょう。

 大きな権力、人を従属させ支配しようとする力に対する批判的な意識を欠いた表現は、簡単にそういう力に持っていかれます。表現者が意図していなくても、容易に表現は大きな権力を擁護し、人をふみつけるようなものになってしまいます。軍事化をすすめる日本に暮らしていれば、軍事と戦争を肯定する価値観を知らず知らずのうちにすりこまれます。差別的な社会にあって、私たちは差別的な考え方やものの理解のしかたを、知らず知らずに身につけていきます。意図がなかったなどと言うことが弁明か何かになるというような表現をナメきった無責任な考え方を、野田さんは捨ててほしいと思います。

 くり返しますが、『HINOMARU』は戦争を扇動する歌です。そのことは、批判・抗議に対して『HINOMARU』を擁護・支持する人びとがとっている言動からも、結果的に証明されてしまっています。

 以下のリンクから、抗議行動の呼びかけやに対しするRADWIMPSファンの人たちの反応がよくわかります(差別的な発言が多々なされているので、閲覧注意です)。

https://twitter.com/MIDpj/status/1006527760599212033
https://twitter.com/kausuke1980/status/1008275419835985920


 抗議行動参加者への暴力を示唆する脅迫がなされています。さらに、おびただしい数の「日本から出ていけ」という排外主義・差別主義まるだしの発言がなされています。「日本の敵」をあぶりだし、それへの敵意と差別を扇動することに『HINOMARU』は「成功」したのです。こうした敵の差別的な創出と、創出された敵への敵意の扇動こそが、戦争につらなる下準備になるものであって、その「成果」を一定程度あげたという結果からみても、『HINOMARU』は戦争煽動の歌であると言えます。

 そして、野田さんは、自分の歌を擁護・支持するおびただしい人が脅迫や差別発言をくり返しているにもかかわらず、これについては現時点ではだんまりを決めこんでいます。自分の作った歌への批判・抗議にはただちに弁明めいた文章を公表したにもかかわらず、です。

 上のリンクにみられるような差別発言や脅迫、『HINOMARU』を支持する人たちの言動に対して、野田さんが今後どのような姿勢を示すのか、注目したいと思います。まあ、知らんぷりを決めこんで、右翼のみなさんとの共犯関係をつづけていくのだろうと予想していますが。

やねごん

EMI Recordsとフジテレビへの公開質問状

公開質問・要求文

EMI Records御中
フジテレビ御中

 

わたしたちは、貴レコード会社に所属されているRADWIMPSがリリースされた歌『HINOMARU』について問題提起している有志です。

 

EMI Recordsは6月6日の『HINOMARU』を発売し、フジテレビは「2018フジテレビ系サッカー」のテーマソングとして『HINOMARU』のカップリング曲である『カタルシスト』を採用しました。しかしこの曲は「戦争を想起させる」と大きな社会問題になっています。つきましては、御社の『HINOMARU』についてのお考えや販売・採用の動機を伺いたいと思い、質問をさせていただきます。

 

①両社は、RADWIMPSHINOMARU』を販売し、それがカップリングに入った曲をワールドカップテーマ曲に採用するにあたり、どのような話し合いをされましたか?

 

②『HINOMARU』を問題だと思いませんでしたか?

 

RADWIMPSの親族に、右翼出版社と一部世間で知られている「展転社」の執筆者がおられることをご存知でしたか? またこの事実は、楽曲採用に影響を与えましたか?

 

④『HINOMARU』が社会問題化していることについて、両社から一切コメントが出ないことは大変不誠実だと思いますどのよう考え、対応しようとしていますか?

 

⑤6月11日に野田洋次郎さんがツイッター上で釈明を行い、以降更新を止めています。ライブ会場で「自分の生まれた国を好きで何が悪い!」「気にしてねーから、かかってこい!」「これ以上はなんの声明も出さない」とおっしゃったと伺っています。このことについて両社はどのように関わっているのか、お聞かせください

 

私たちは、この曲は「日の丸」と「御国・御霊」を称えています。これは戦前の日本が人々を戦争へ駆り立て、何千万人ものアジアの人々を殺させた道具や用語です。
日の丸は当時も今も侵略戦争のシンボルです。「御国」は国家をあがめまつり、「御霊」は国家のために死ねば素晴らしい霊になれますよ、ということを意味します。
日の丸をいまだに国旗に用い、こんな用語まで歌われるのは、今も日本が侵略戦争を反省していないからです。そうした政治家発言や書籍があふれる中、音楽は特に人に強い影響を与えます。RADWIMPSのような、若いファンが多く、知名度も影響力も大きいアーティストが、このような曲を発表することは許されません

そこで、以下の3点を要求します。

 

①「HINOMARU」シングルを回収し、廃盤にすること。

②ライブなどで2度と歌わない事。

③「HINOMARU」の内容と、これまでの釈明が間違っていたと早急に表明すること。

 

質問・要求は以上です。回答は、私たちの公式ツイッターにリプライでお送り下さい。
回答期限は6月24日(日)とさせていただきます。

 

2018年6月17日
RADWIMPSの『HINOMARU』に抗議する6.26ライブ会場前アクション!」主催者一同

https://twitter.com/rad20186

RADWIMPSへの公開質問状

RADWIMPS御中

わたしたちは、貴バンドがリリースされた歌『HINOMARU』について問題提起している有志です。この曲は表現と歴史認識に大きな問題があり、それをみなさんに私たちと一緒に考えてほしくて、以下の文章をお送りします。

さっそくですが、『HINOMARU』には以下の問題点があると認識しています。

 

①曲について
この曲は「日の丸」と「御国・御霊」を称えています。これは戦前の日本が人々を戦争へ駆り立て、何千万人ものアジアの人々を殺させた道具や用語です。
日の丸は当時も今も侵略戦争のシンボルです。「御国」は国家をあがめまつり、「御霊」は国家のために死ねば素晴らしい霊になれますよ、ということを意味します。
日の丸をいまだに国旗に用い、こんな用語まで歌われるのは、今も日本が侵略戦争を反省していないからです。そうした政治家発言や書籍があふれる中、音楽は特に人に強い影響を与えます。RADWIMPSのような、若いファンが多く、知名度も影響力も大きいアーティストが、このような曲を発表することは許されません

 

②背景について
日本は政治的な歌を避けたがるのに、椎名林檎、ゆずなど、右翼的な曲を出す有名音楽家が相次いでいます。
そうした歌を出せば売れる、ある層に認知されるなどの計算があるかもしれません。
また自民党政権はマスコミから様々な文化まで、自分たちを支持する報道をさせ、戦争を賛美する表現を支援しています。その影響もあるかもしれません。
ビジネス面の理由でも、思想面の理由でも、いずれにしても、そのような表現を放置したら侵略戦争を繰り返すことになるため、やめるべきなのです

 

表現の自由について
表現の自由憲法によって保障されていますが、その自由とは、どんな歌でもリリースしてよいということではありません
HINOMARU』の歌詞を一部取り上げるなら「この身体に流れ行くは 気高きこの御国の御霊」とあるように、日本人の血を尊び、先祖の霊を敬う気持ちが歌われています。
しかし日本には日本国籍者以外も大勢住んでいます。彼らに日本社会は何をしているでしょうか
日本の入国管理局に囚われた「外国人」たちは、病気を放置されたり腐った食べ物を出されたりするなど、人権を剥奪されています。在日朝鮮人たちは、日本で何世代も暮らしていながら、税金を払わされる一方で被選挙権も選挙権も与えられず、差別や暴力を受け、朝鮮学校は高等教育無償化の対象から除外されています。東南アジアからは、身売りされ、極めて安い賃金で強制労働させられている「外国人たち」がいます。
日本人の血を尊ぶことは、外国人の自由を奪い、尊厳を痛めつけ、精神的身体的に殺すことと切っても切り離せません。言うまでもなく、そのような力を持った歌を出す自由はありません。

 

上記の問題点を踏まえ、以下の質問を提示します。

 

どうしてこの歌を出したのですか?

 

今この時期に出した理由はありますか?また、レコード会社やスポンサーのフジテレビにはどのような要求をされましたか?

 

③日本が19世紀からアイヌ琉球・台湾・朝鮮半島・中国・東南アジア各国へ侵略したり人体実験や生物兵器の研究を行ったりしたこと、慰安婦制度を作って女性の人権を踏みにじったことを知っていますか? あるいは、この歴史を事実関係を含めてどのように認識していますか?

 

④歌ではなく国旗の日の丸について、どのように考えているか教えてください

 

⑤ライブ会場で野田洋次郎さんが「自分の生まれた国を好きで何が悪い!」「気にしてねーから、かかってこい!」「これ以上はなんの声明も出さない」とおっしゃったのは、事実ですか? また、そうであるなら6月11日の「釈明」との整合性はありますか?

 

⑥6月11日の「釈明」では英語と日本語が併記されていましたが、なぜですか?

 

⑦6月11日の「釈明」において、「日本人」を「the people living in Japan」とする誤訳がありました。後者は「日本に住む全ての人」のはずです。これは意図したものですか? 誤訳であれば訂正すべきかと思いますが、いかがでしょうか。

 

⑧最後に、わたしたちに対しておっしゃりたいことがありましたら、ご自由にお書きください。

 

質問は以上です。
回答期限は6月24日(日)とさせていただきます。

 

RADWIMPSの『HINOMARU』に抗議する6.26ライブ会場前アクション!」主催者一同

意見特集:RADWIMPS『HINOMARU』の何が問題か①

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「まっすぐさ」が恐ろしい――RADWIMPSHINOMARU」批判

2018年6月
芦原省一

 今月六月六日、RADWIMPSはシングル「カタルシスト」を発表しました。それと同時
にメインソングライターである野田洋次郎氏は、インスタグラムとツイッターで、自
ら作詞・作曲したカップリング曲である「HINOMARU」についてコメントを公表しま
す。「まっすぐに皆さんに届きますように」と。

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 歴史的、政治的な背景もあるのかもしれません。色んな人がいて、色んな考え方が
あります。誰の意思や考え方も排除したくありません。 ……

 僕はだからこそ純粋に何の思想的な意味も、右も左もなく、この国のことを歌いた
いと思いました。自分が生まれた国をちゃんと好きでいたいと思っています。好きと
言える自分でいたいし、言える国であってほしいと思っています。

 まっすぐに皆さんに届きますように。
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 その後、この歌はRADWIMPSファンに受け入れられる一方で、「右翼的だ」「軍歌で
はないか」「皇国史観を思わせる」と多くの人から批判されることになりました。そ
の後、野田氏は一一日に、あらためてツイッターにて釈明文を発表します。

---------------------------------------------------------
 この曲は日本の歌です。この曲は大震災があっても、大津波がきても、台風が襲っ
てきても、どんなことがあろうと立ち上がって進み続ける日本人の歌です。みんなが
一つになれるような歌が作りたかったです。
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 両方の文章で強調されているものは、素朴なナショナリズムとでも言うべきもので
す。私はそれそのものが問題だと考えますが、「誰の意思や考え方も排除したく」な
いという言葉も、「純粋に何の思想的な意味も、右も左もなく、この国のことを歌い
たい」という気持ちも、野田氏にとっては本心なのでしょう。


RADWIMPSの「まっすぐさ」

 私はこれらの文章、それに「HINOMARU」の歌詞に対して、徹底した無自覚さを感じ
ます。そして人は時に無自覚ゆえに残酷さを発揮するものです。私はRADWIMPS のそ
の「まっすぐさ」が恐ろしいのです。

 別の言葉で言い換えましょう。私は野田氏の言っていることや、「HlNOMARU」の歌
詞は問題だと考えています。しかし、より問題なのは、野田氏が言っているにもかか
わらず気付いてないことや、「HlNOMARU」の歌詞に含まれているにもかかわらず見過
ごされていることなのです。


 野田氏は「純粋に何の思想的な意味も、右も左もなく、この国のことを歌いたい」
と言います。そこから感じ取れるのは、かれが「HINOMARU」という曲を、なにかしら
自然なもの、価値中立的なものだと考えているということです。

 また、ツイッターなどを見ると、「HINOMARU」及び「日の丸」に抵抗を感じないど
ころか、ごく自然なものとして肯定的に受け止めている人が多いようです。

 怖いな、と思います。野田氏、そしてRADWIMPSファンの人々は、二つのことを忘れ
てしまっていると思います。一つは日の丸の持つ歴史的な意味です。もう一つは、
「普通の日本人」ではない人々の存在です。そのことが怖いのです。


● 多数派には名前がないこと

 それらの点を考える前に、まずは野田氏と「HINOMARU」を支持するRADWIMPSファン
の意識について、考えてみたいと思います。

 なぜ、かれらは、それなりの人々が問題ありと考えているものを、まるで無色透明
で、価値中立的なものであるかのように、受け入れてしまえるのでしょうか?

 そのことを分析するには、「多数派には名前がない」という次の文章が参考になり
ます。

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 国家において、「民族」を意識させられるのは、いつもマイノリティである。差別
制度が、日常的な差別が、マイノリティに「民族」を意識させるのだ。……

 多数派は、名前をつける側である。そして、多数派は名前をもたない。多数派は、
名前をつけられるのをいやがる。自分たちは、だれかにたいして、くりかえしやって
いることなのにだ。

 民族は社会的に、歴史的につくられたものだといえば、自分たちはこれまでどお
り、名前のない「だれでもない個人(ノーバディ)」でいられる。無徴(むちょう)
でいられる。
http://d.hatena.ne.jp/hituzinosanpo/20090509/1241874455
---------------------------------------------------------

 ここで述べられていることを、私なりに要約します。マジョリティはマイノリティ
との相関関係において、マジョリティである。ところが、マジョリティはマジョリ
ティであるがゆえに、そうとは意識しないまま自らが無色透明で標準的な存在である
かのように振る舞える。

 一方でマイノリティには、名前が付けられる。そして印のついていないマジョリ
ティと、印の付いたマイノリティがあるかのように、社会が構成されてしまう……と
いったところです。

 これは、「HINOMARU」(や日の丸)、愛国心、国家などを当たり前のものだとみな
し、そのことは普通のことであると考えて、疑ってもみない人々の意識を説明するも
のでもあるかと思います。


● 日の丸の歴史的な意味

 次に、日の丸の歴史的な意味について、考えてみたいと思います。

 「HINOMARU」という曲は、少なくとも積極的には戦前や軍国主義を褒め称えたり、
他民族を貶めたりはしていないじゃないか、と言う人もいるかと思います。

 RADWIMPSの「HINOMARU」を念頭に置いたかどうかは不明ですが、そのような考え
を、まさしく言い当てたかのようなツイートがありました。

---------------------------------------------------------
push(@pushbgbg)
 日の丸はナショナリズムの象徴であるだけでなく、植民地主義レイシズムの記号
としての役割を持っているのに、「ナショナリズムなだけ」と偽装できることになっ
ているんですよ。

 この「ナショナリズム以外の捨象」を言い換えると「まっすぐ」「素直」「正直」
と表現されるわけです。
https://twitter.com/pushbgbg/status/1005126640949592064
---------------------------------------------------------

 上の文章を私的に言い換えると、さしずめ次のようになります。日の丸が意味する
ものは、単に日本国や日本国民だけでもなく、ナショナリズムだけでもない。それは
植民地支配と侵略戦争の象徴であり、他民族蔑視の象徴である、と。


 日本の過去については多くを言うまでもないでしょう。――少なくともそう信じた
いものです。

 過去日本は、朝鮮半島を「併合」して植民地支配を行い、土地から労働力まで徹底
して収奪しました。「併合」というのは当時の官僚が作った造語です。また、アジ
ア・太平洋戦争においては、海外で二〇〇〇万人を殺し、日本人も三〇〇万人が死に
ました。しかも海外の犠牲者の多くは、アジアの人々でした。

 栗原貞子の詩にあるように、日の丸は「日の丸の赤はじんみんの血/白地の白はじ
んみんの骨」と言うべき旗なのです。「まっすぐ」な意味だけを取り出して、そうし
た歴史的な意味まで無視するわけにはいかないはずです。


● 歴史の忘却について

 とはいえ、歴史の忘却(ないしは捨象)が起きていることは認めざるを得ません。
どうしてそのようなことが起きうるのでしょうか?

 その基礎としては、戦前から戦後になって、日本は平和国家になったという思考が
あると思います。私はそれをリセット思考と呼んでいます。確かに、憲法をはじめと
して変わったものもありますが、戦前から戦後へと引き継がれたものも多いのです。
天皇制、日の丸、君が代などがその代表です。

 終戦後しばらくは、天皇制についても、日の丸や君が代についても議論があり、裕
仁は退位すべきだとか、日の丸に変わる新たな国旗を制定しようという意見がありま
した。

 それに、一九九九年まで、日の丸は正式な日本の国旗ではありませんでした。その
年、他の悪法とともに、国旗国歌法が制定されたのです。その年に生まれた人は来年
二〇一九年に二〇歳になります。一九九九年に一〇歳の人なら三〇歳です。


 いわば、それが権力のやり口なのです。取るべき責任を取らず、既成事実化し、や
がて人々が、自然なものとして受け取るのを待っているのです。天皇制・日の丸・君
が代といった大日本帝国を支えた装置は、戦後もそのまま生き延びました。そして生
き延びることによって、既成事実となってしまいました。

 それは、世代を超えて洗脳しているようなものです。国家は世代が変わることを歓
迎しています。ある世代ではまだしも問題とされていたものが、次の世代や次の次の
世代では、自明視されて問題視されなくなっていくというわけです。

 つまるところ、私たちは実際には、戦争責任の追求が徹底していない社会に住んで
いるのに、それに慣らされてしまっているのです。


● 「普通の日本人」以外の存在

 以上は、歴史の忘却についての話でしたが、野田氏が忘れていることがもう一つあ
ります。それは現在日本に居住する「普通の日本人」以外の人々のことです。

 当たり前のことですが、「大震災があっても、大津波がきても、台風が襲ってきて
も、どんなことがあろうと」影響を受けるのは、日本人だけではありません。政治に
ついてもそうです。野田氏は歴史を忘却しているのみならず、現在生きている人々も
忘却しています。

 野田氏は、「日本人の歌」「みんなが一つになれるような歌」を作りたかったのだ
と言います。しかし、私のような人々はそこに含まれていません。


 さて、ここで少しばかり、自分のことを話さねばならなくなったようです。

 私の祖父は朝鮮半島からやってきました。そして、父方の一族は私が生まれる前に
日本国籍を取得したので、私は「日本籍在日朝鮮人」ないしは「朝鮮系日本人」とし
て生まれました。

 そんな私にとって、いくら日本で生まれて日本で育ったとはいえ、「日の丸」は自
分の旗ではないと感じます。いいえ、それどころか恐怖感を感じると言ってもいいく
らいです。より正確に言うのならば、日の丸の下に一体となった「普通の日本人」た
ちが怖いのです。


 少し変わった話をしましょう。地震が起きたある時のことです。震度そのものはさ
ほどでもなかったにもかかわらず、その時私の父の狼狽ぶりは異常でした。余震に備
えてとにかく安全な場所にいよう、という家族の者の言葉も耳に貸さず、無言なまま
自転車でふらふらと出かけたのです。

 今にして思えば、父は「何か」が起きてやしないか、見回りに行ったのだと思いま
す。関東大震災後に朝鮮人虐殺が起こったのは、よく知られた事実です。今でも地震
が起きると流言飛語が飛び交います。そのような「何か」です。父はそういうことを
非常に気にする性質でした。


 朝鮮半島にルーツを持つ人が、みな私と同じように感じるわけではないでしょう。
しかし、私は日の丸の下に一体となった「普通の日本人」たちに、自分は含まれてい
ないと感じるし、それどころか自らの存在が脅かされるかのような恐怖を感じます。

 その旗は、私のような人々を支配し、殺し、犯してきた時に、はためいていた歌な
のです。今でもデモを襲撃する右翼やレイシストが掲げる旗です。そしていまだに、
私のような人々は、何かが起きれば殺される側にいるのです。


● 「日本人」としての責任

 上でも述べたように、私は朝鮮人であるとともに、日本人でもあるという複雑なあ
り方をしています。そのことについてもお話しすべきでしょう。

 つい最近たまたま知ったのですが、小説家の柳美里氏は、芥川賞を受賞した際に、
「私は、日本人でも韓国人でもありません」と言ったそうです。また、同じく小説家
の温又柔氏も、日本人と台湾人の間で揺れるアイデンティティについて、語っていま
す。なお両氏の小説に対する評価はさておきます。

 このような曖昧なアイデンティティのあり方は、語るのが難しいものです。しか
し、敢えて端的に述べるのならば、日本国には「普通の日本人」だけではなく、様々
なルーツを持った人々がいる、ということになるかと思います。

 さて、先ほど、日本は戦争責任の追及が徹底していない社会だ、ということを書き
ました。私の中には日本人の部分と朝鮮人の部分があります。そして、どちらかが一
〇〇パーセントを占めるということは、生涯を通してないでしょう。

 そして、日本人であるという部分において、私は決着の付いていない歴史的な責任
を果たす義務を感じています。つまるところは、日本人としても朝鮮人としても、日
の丸・君が代天皇制といった、残置された帝国主義の装置をなくしたいし、そのよ
うな平等な世の中にしたいのです。


● 結語

 以上、「HINOMARU」の問題点を私なりに指摘しました。

 この曲の持つ「まっすぐさ」が、日本社会のマジョリティであるがゆえの無色透明
さの上にあることを考えてほしいと思います。また、そのような無自覚さは、時間的
には歴史の忘却につながり、空間的には「普通の日本人」以外の人々の忘却につな
がっていることに気づいてほしいと思います。

 そのためには記憶すること、そして想像することが重要になります。日の丸の持つ
意味から一部だけを取り出して、後は忘れるというわけにはいかないし、日の丸を
「普通の日本人」とは異なる目で見ている人々もまた、この国の住人なのですから。
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以上です。

いうデモ主宰者からのメッセージ

ライブを楽しみにしているときに、小難しい話はナシにしたい。でも、わたしにも、RADに負けないくらいの気持ちであなたに届けたい言葉がある。少し時間をください。

歌に込める想いはだれにだってあるし、聴く側も深く共鳴する。愛するアーティストなら、なおさらそう。でも、忘れてはいけないことがひとつだけある。良心だ。

「右も左もなく」「まっすぐに皆さんに届きますように」と野田さんはツイッターで配信した。これに対して、わたしは思った。「まっすぐに届けられたファンは、どうなるのだろう?」と。

世の中に広まってしまった在日朝鮮人を含む外国人に対する「国へ帰れ」「母国語を使うな」といったヘイトスピーチ、通学時にスカートをハサミで切られたり、朝鮮を嫌う人々が学校に押しかけたり…。こうしたことをする人々は、いずれも「国を愛しているから」と口をそろえる。

野田さんが、RADがそうだと言うつもりはない。ただ、届けられた人々の良心が、悪い形で社会を動かすことになるのではないか、ということを、わたしは恐れている。

わたしは朝鮮人でも外国人でもない。でも、だからこそ、同じ国に住んでいる人々に、憎しみを向けるのはやめよう、と、きっとRADたちの声をまっすぐに受け止めたあなたに伝えたい。

(いうデモ りょう)